誰にも、言わない。
自分を出したほうがいいのか?
あまり「創作をしてる」と、リアルの知人には言わない私です。
ネットでもそうそう言ってないけど。自由な言動ができない。
と、考え自分を守ろうとする人よりも、そんなんいいから世間に意見を問おう! というタイプのが売れる、話題になる、成功する、のかもしれません。
どちらにせよ面白いもの描いてりゃ売れるってのは、まあさて置き。
なんでこう、かたくなに秘密なのか。ときのう自分を振り返ってみまして、幼少期のトラウマがひとつ思い当たった。
作者の了承を得てからお読みください
私は2才半ころから記憶があります。
明確に覚えている最初の記憶は、2コ下の弟が生まれる前に、名前を決めようって家族会議になって、(たぶん今にして思えば日曜日の)昼下がり、茶の間に祖父母と父母が集まって何か真剣に話し合っていて、
私は、みんなが今までとは違う緊迫感で、かまってもらえなくて、「ちょっとあっちで遊んでなさい」と言われて、隣の床の間でヒヨコのブーブーに乗って遊んでいた。
「なんだきょうはへんだな。つまんない」的な感情をいだきながら。
記憶と魂
その前後にも、ハッと気がつけば庭にいて、たまに魂が抜けたり、自分の体に入って「意識が戻った」みたいな感覚になったり、
だんだん自分の体に入っていられるのが(自分が自分だと感じられることが)長くなり、多くなり、いつのまにかずっと自分だった。
この感じ、たぶんまだら呆けと共通するものがあるのではないかと思っている。
閑話休題。
創作ポリシー(by未就学児童)
けっこう小さい頃から自我っぽいものがあって、んで読み書きもかなり早くからできた。
絵本とか、ワニとウサギが会話してたりして、「子供だましだ」と感じていた。世界ってそうじゃない。
本を読んでいて、犬や猫や動物がしゃべったり、アンパンがしゃべったり、そんなこと現実にあるはずがない。バカにするなよ。とつねづね、不満だった。
(それはそういうものとして描かれているだけだ、というのがわからないあたりが子供だったわけですが)
で、4歳あたりの頃に、自作の物語を書いた。チラシの裏に。びっちり。
(それ以前にもチラシの裏に、おばあちゃん宛のお手紙とかをよく書いていた)
自分ぽいものが主人公で、言葉をしゃべる犬が出てくる。でも、(私が思う)ふつうの物語とはちがって、犬がしゃべると主人公はびっくりして、「犬がしゃべるわけない! でも、しゃべるんだね」的な、納得いかないけど現実を受け入れて物語は進んでいった。
自分としては、「犬がしゃべってもそれを当然と受け止める物語世界へのアンチテーゼ」とか、そういうつもりだった。挑戦だった。世界を拓く。気概だった。
これは新しい……。私は天才だよ。
そんな新進気鋭のエッジ立ちまくりな物語を、もしもうかつに発表したらば世間が大混乱におちいってしまうので、しばらくそれは、こっそり寝かせておくことにした。
家族不信
んだけどある日、保育園から帰ってみたら、家族中の人が茶の間に集まって、私の物語を、まわし読み、していた。
んで、へらへら笑って、バカにしたように、「おもしろいよ、よく書けてるね~」と、褒めた。
私は世界が壊れたようになった。侮辱で、屈辱だ。
よく書けてるねって!
まわし読みって!!!(ヒドイ)
と、大ショックだったんだけど、何がどうショックなのか、このエピソードを人に話して、あんまり意味がちゃんと伝わったことがない。
でもさ、自分で創作する人ならたぶんわかるでしょ、わかる人いると思う。
それ以来、自分が書いたものを誰かに“勝手に”見られるのがすごいキライ。
だって内面だからぁ! 内臓だから!!!
推敲してないから!(とまでは、思っていなかったんだろけど当時は)
ともかく、とっても傷ついたので、褒められても嬉しくない。
(見せる覚悟で見せる用に書いたのは、褒められるとちゃんと嬉しいよ)
日記の位置づけ
日記とか人に見せる前提で書くタイプと、そうでないタイプがいるらしいですが、私は見せない前提だ。だからこそ本音が書けるんじゃんか。
他人の携帯とか日記とか、読みたくなるしどうしても我慢ができずに読んでしまうのはしょうがないにしても、見たことを当人に言うのだけはやめてほしい。
みたいな、感覚です。
なので漫画家だったとか、小説でも商業誌に載ったことがあるとか、言わない。
(夫には言わなきゃとずっと思ってて、結婚半年くらいの頃にたまたま、自分の単行本が本棚に入っているのが見つかり、
「なんでこのマンガ何冊も持ってるの?」と訊かれたのをきっかけに、バラしました。
そこまで変なリアクションもされなかったので、まあよかったよかった)
穴ぐらが安心
そんな感じで、私はオープンなタイプではない。
穴ぐらに入っているのがとても安心なタイプなのです。
それはそれでいいや。向いてない。